<7> 発音について
読解力がついてきたら、英作にも多く取り組んで、今度は文章を作れるようにすることです。文章が作れるようになれば、英作は手で表現する行為ですが、頭で作った文章を口から出しさえすれば話すことになります。 発音は発音記号で習った通りです。
発音は良いにこした事はないのですが、伝わりさえすれば、必要以上にコンプレックスを感じる
ことはないと思います。 冒頭に触れた通り、英語は国際語となり、どこの国の人と話す場合でも、英語が使われることが多いと思います。英語を母国語としている人口より、母国語としていない人口の方が多いので、ネイティブ以外同士で、英語でコミュニケーションを図ることが多いはずです。
ネイティブでなないので、訛りがあるのは仕方なく、話の内容さえしっかりしていれば
何も恥じることはありません。ネイティブと話す場合でもそれは同じだと思います。
むしろネイティブの方と話すときは、外国語(この場合は英語ですが)を話せるほどに
勉強してきたことを自慢に思っても良いくらいでなないでしょうか。
例えが適切かどうかわかりませんが、話の内容がソフトウェアで、話を伝える媒介の英語はハードウェアだとすると、ハードウェアの英語がいかに立派でも、話の内容のソフトウェアがお粗末だと
仕方がないのではないでしょうか。 逆にソフトウェアが立派だとハードウェアの英語に少々訛りがあろうとも気にすることはないでしょう。
「何時に起きて、何処そこへ行って、ご飯を食べて、何時に寝た」ということを、完璧な発音の英語でしゃべるより、訛りがあっても、自分の興味のある分野に関する意見を述べる方が、ずっと優れていると思います。
その様に考えると、自分の意見や、興味のある分野の知識を持っていることが大切で、
その為には、母国語である日本語をきちんと学ぶことが不可欠でしょう。
意見や知識を身につけるためには、情報を入手したり、咀嚼・分析する必要があります。
情報の入手手段は、文章を読む・人の話を聴くことで、情報の咀嚼・分析手段は考えること
ですが、いずれも母国語の日本語で行なわれるはずです。
文章を読んだり、人の話を聞いたり、情報の分析を行なって、自分の意見や知識を持っていれば
少々英語が下手でも、中身の濃いコミュニケーションは図ることができます。
<8> 会話中心の勉強法の「実」
今までは、コミュニケーションの道具としての英語に関する私見ですが、最終目的がコミュニケーションにあるとするなら、その媒介/道具として、英語をそれほど必要としないケースもあるのではないかと感じています。そうであるなら英語を学習する苦労からは少し開放されるのではないか、それが違った意味での「会話に重点を置いた勉強法」の一つではないかと考えることもあります。
コミュニケーションの道具/媒体が英語で、その英語の能力が未熟であれば、偉大な愛情を持った親等との会話以外、つまり赤の他人との会話は難しい。既述の様に「何時に起きて、・・・何時に寝た」という話しかできない人と、会話を楽しんでくれる他人は少ないでしょう。
そうであるなら、英語以外のものをコミュニケーションの道具/媒体の中心にできればいいわけです。
海外へ出て活躍されている日本人も多いのですが、特にスポーツ選手などは、コミュニケーションの媒体の中心は英語や現地の言葉ではないと、感じることがあります。
野球選手であれば、コミュニケーションの媒体は野球、サッカー選手ならサッカー、がコミュニケーションの道具として中心的役割を果たし、英語はそれに付随するだけで、片言でよい。
例えば米国のプロ野球で活躍している日本人とは、現地の選手も一緒に野球をしているだけで
楽しいし、プレーの仕方や考え方を学ぶこともできるし、つまり、その日本人選手が立派な英語を
話さなくとも、時間を共有できる。共有する時間が多いほど、その日本人選手も何らかの形で
無意識的かもしれないが、現地の選手などから結果的に英語を学ぶことになる。
最初は、キャッチボールという単語かもしれないし、スパイクや、バットや球種の
単語かもしれない。それが野球の技術や戦術や練習方法や体の手入れの仕方や、つまり
野球に関する様々な話に発展し、そこから人間的な関係が深まり、さらに共有する時間が増え、
また、結果的に英語を学んでいくことになる。いわば会話を重視した勉強方法と
言えなくもない。
もちろん、野球に限らず、サッカーの場合もあるし、水泳や他のスポーツ、スポーツでなくとも
文学や歴史や、ひょっとして趣味的なことで、車やファッションの知識、その他何でも人を惹き付ける何かがあれば、それを媒介として時間を共有し、そこから派生的に英語を学ぶことにつながる。
これが会話を重視した勉強法。
母国語を習う過程で、親などは無償の愛から、子と時間を共有し、その中で、子供は言葉を
学んでいきますが、外国語を学ぶのに、他人は何か得るものがないと、時間を共有してくれない。
言葉(この場合英語)でコミュニケーションを図れるほど、英語がしゃべれないのであれば、英語以外で、何か人をひきつけるものを持ち、それを媒体に、他人と時間を共有して、その中で英語を学んでいくということです。
趣味でも、考え方でも、志でも、特技でも、専門知識でも、何か魅力となるものを持ち、それを介して外国人と時間を共有し、その中で派生的に英語の習得につながっていくということが、会話を中心とした勉強法になるということです。つまり、人間対人間の関係の中で、コミュニケーションの
手段としての英語が身についていくということです。
終わり。
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